121 平尾ひらおじょうと平尾土塁どるい

平尾土塁

 美原区みはらくのさつき野にまいります。丘陵地きゅうりょうちに広がるじゅう宅地たくちの北西のはしに、右側の写真のように土をもった所があります。これは「平尾土塁」とよばれている土塁です。また、その土塁の南、住宅街の中に下の写真の石碑せきひが立っています。少し読みにくいですが、「平尾城(ねはん城)あと」と書かれています。平尾土塁は、平尾城の土塁だったのですね。平尾城は、城といってもかんたんなとりでのようなものです。丘のはしに城を造り、北の方からのてきそなえたものと考えられ、元弘げんこう年間(1331~1334年)に楠木くすのき正成まさしげが造ったと伝えられています。

平尾城址

 このころの時代を南北朝なんぼくちょう時代じだいといって、北にある京都にも、南にある吉野にも天皇てんのうがいました。北にも南にも天皇がいてそれぞれが政治せいじをおこなっていましたので、この時代を南北朝時代といいます。その南北朝時代のえいとく三年(1382)に正成の三男楠木正儀まさよしが、山名やまなたたかってやぶれて退しりぞいたところが、この平尾城でした。

 また、1388年に、三代将軍しょうぐん足利あしかがよしみつが、現在の和歌山にあった玉津たまつしま神社じんじゃにおまいりして京都に帰る途中を、南朝方の正成のまごである楠木正勝まさかつが千人の軍勢ぐんぜいおそおうとしました。これを知ったあか坂城さかじょうにいた北朝方の山名うじきよは、三千五百人の軍で平尾に先回りをして、正勝の軍をむかえて打ちやぶりました。このいくさが平尾合戦かっせんです。

 この四年後に、北朝方は、楠木氏の本拠地ほんきょちである千早ちはやじょうとして、南北朝が一つになり、南北朝時代は終わりました。

 これらの南朝方と北朝方との戦のあとが、ここ美原区さつき野にのこされているのです。

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