1.神南辺町って?
まずは、この住所表示板をご覧ください。「神南辺町」とあります。堺市堺区の住所です。住所表示としてはちょっと変わった名称ではないでしょうか。場所は、三宝小学校区、ちょうど月州中学校から西側に伸びている地域になります(下の地図赤枠参照)。
これは実は人の名前なんです。と言っても普通の町ではありませんが。神南邊道心という僧が住んでおられた所なんですね。その僧の名前から付けられた町名になります。それでも少し変わった名前ではありませんか。この人物について、少し探っていきましょう。
2.神南邊道心って?
もとは、弥兵衛という名で、大和生駒郡神南村(現在の奈良県生駒市)に生まれています。河内布施村というから現在の東大阪市布施にあった上田利兵衛方で鋳物師をしていました。ここで燗鍋つまりお酒の燗をする鍋をつくっていたのですね(写真参照)。
腕のいい職人だったようですが、弥兵衛は気難しく、気が向かないと仕事をしなかったり、素行が悪くお酒を飲んでは乱暴を働いたりしたために、世間の人たちからは、まゆをひそめられていました。
この弥兵衛の子は、幼いころから仏門に入り、摂津東成郡只新並荘村(現在の大阪市)法明寺慈眼の弟子となります。成長して大和生駒郡龍田町字小吉田で荒れていた吉田寺を再興するほどになります。この子が、父弥兵衛の行いを嘆いて父を諌めたことで、弥兵衛は自分のしてきた悪業を後悔し、発心して仏門に入りました。これは、昭和4年刊行の堺市史に書かれている弥兵衛の発心した経緯です。
これに対して昭和42年刊行の狭山町史では次のように書かれています。
「大道心は少年のころから魚をとり、みみずを殺し、犬を虐げるなど、いわゆる殺生を重ねてきたが、ある夜の夢にみずからは犬、みみずの地獄に堕ち、すでにあやういところへ、報恩寺の地蔵があらわれて大道心を救われた。そのとき地蔵尊は大道心の将来を戒められて、いま汝を地獄の苦しみから救い上げる。こののちは善行を施すべしといわれたので、彼はここでかつての悪行から発心した。」と。さらに続けて、「その由来を墨書してこの額を仏前に懸け奉った。天保11年七月の年紀がある。」として、下のようなその額の絵を掲載しています。
この額は下の写真にあるような、縦60cm、横143cmの大きさです。絵は、中央にいるのが半裸の大道心で、その体に多くのミミズが吸い付き、5匹の犬が取り巻き、大道心はおびえながら、左上から雲に乗っている地蔵尊にすがっているありさまを表しています。この額絵からは、大道心の夢を見た折の心根を見とることができますね。

3.神南邊道心の発心による行いとは?
さらに先の堺市史を見てみますと、仏門に入った道心は諸国を行脚して人々から施しを受け、分かれ道などの岐路の紛らわしいところに標石を建てたり、橋を架けたりして交通を便利にしていったことや、地蔵を信仰して町内の傍らに多くの石の地蔵を置いたりしていたことが書かれています。
また、京都御室山八十八か所の標石が相当傷んでいたので、これを新たに建て直したことが御室御所に聞こえました。拝謁を許されましたが、高貴な人たちの前にもかかわらず、胡坐のままで盃をいただくような態度をとっています。それでも、天皇からは、「燗鍋」では文字も面白くないだろうと「神南邊」という文字と、「道心」という号とをいただき、これ以降、「神南邊道心」と名乗るようになったようです。
京都の大仏が焼けて失われたときには、全国を行脚して米銭の寄付を求めたり、煙管の雁首や吸い口をいただいて再建のための材料にしたりしています。
これらのことから、天保7年(1837)には、嵯峨天皇より銀の杖をいただいたり、堺奉行からは念珠をいただいたりしています。堺の旭蓮社というお寺のために勧進をし、本堂・庫裡・屋根の修理をし、二十五菩薩練供養の仮面や装束なども寄付しています。
4.神南邊道心の死
先に出ていました旭蓮社に参りますと、写真にありますように、地蔵様が大きな台座に座られており、その台座には、「神南邊大道心墳」と刻まれています。 これが神南邊道心のお墓になります。
下が現在の旭蓮社です。この本堂の左奥に神南邊道心のお墓があります。
なお、この台座には、天保12年9月10日になくなられたとほられていますが、堺市史には、天保12年2月20日になくなられたと書かれており、元にした伝記などによって多少の違いが出ているようです。
5.今に残る神南邊道心の善行(道標の建立など)
① 百舌鳥八幡宮(〇)
これは文政13年(1830)に建てられたもので、
と読めます。右のは1文字が判読できませんが、この道標の横側には「さかい 神南邊」とほられていました。左のは「高野山」「金剛山」へ向かう道標で、右のは「家原寺」と「大寺」(開口神社)への道標でしょう。
この道標が建てられているのは、百舌鳥八幡宮境内の大階段の右下付近(下の写真)です。百舌鳥八幡宮と言えば秋の月見祭での布団太鼓で有名ですが、この布団太鼓が本殿に奉納されるときに、この階段を勇壮に駆け上がるのが見ものですね。
写真の右下の道標が、神南辺道心の建てたものです
② 西高野街道の草尾の分岐点
建てられた年号は不明ですが
と、読めます。
「右 高野山・大峯山」そして「左 瀧谷・金剛山」への道標ですね、
そして、この横側には、「発起 神南邊」とほられています。
下の地図の「〇」部分に建てられています。なお、赤点線が西高野街道です。赤一点鎖線の道との交点にあたります。
③ 菅生神社(美原区菅生)・・地図の〇印
建てられた年号は不明ですが、「天満宮降誕地」とほられています。この神社は、菅原道真が誕生したとされており、菅生宮幷高松山天門寺縁起絵巻(下の写真)にもその様子が描かれています。右下に菅原道真が池から現れています。
なお、元は天満宮ではなく、菅生氏の祖神を祀って氏神としていましたが、中世にこの神社の社僧が、「菅公が境内の菅沢の畔で生まれた」とする説を唱え、天神を配祀したのです。
ただ、神南邊道心が、この神社になぜ「天満宮降誕地」という石碑を建立されたのでしょう。
3月25日は、天神さんの命日とされており、菅生神社の祭日です。しかし、狭山村(現・大阪狭山市)の人々の多くは藤井寺市にある道明寺天満宮に参詣していました。そういうことから、神南邊道心は、地元の天満宮こそ菅原道真の誕生された地であることを広め、多くの参詣者が来られることを願ったのではないでしょうか。
また、⑦でも触れますが、先の道明寺天満宮でも神南邊道心は石碑を建てており、菅原道真を崇拝する気持ちが強かったのかもしれません。
なお、上の写真は、現在の菅生神社で、下のは江戸時代の河内名所図絵に描かれた菅生神社です。
④ 大阪狭山市狭山・報恩寺前(〇)
報恩寺は、中高野街道と下高野街道が合流する付近に建つ寺院で、この南側にこの道標があります。彫られている「こいさか子安地蔵尊」とは、半田村にあった融通念仏宗の地蔵寺に祀られていた地蔵のことです。
この2つの高野街道の合流点付近からわずか1丁で、地蔵寺に到着しますよということを示しています。ただ、この地蔵寺は、 現在ではもうなくなっていますが、神南邊道心の地蔵堂の本尊への厚い信仰が見えますね。
⑤ 大阪狭山市狭山・「大阪狭山市」駅前
かなり朽ちていますが、文字はまだしっかりと読むこととはできます。
中高野街道(下の地図の緑の破線)の途中に建っており、この街道を通って滝谷不動や金剛山へ参る人たちが、多くいたのだろうと思われます。写真に写っている道標の面は、そこから東に向かう道に沿っていて、中高野街道とは別れることになります。それだけに、この地までたどり着いた人たちにとっては、高野山に行ってしまうか、滝谷不動方面に行けるかのとても大事な道標です。
⑥ 富田林市・「滝谷不動」駅前(〇)
これは、滝谷不動駅のすぐ南を通っている道路と東高野街道との交差点に建っています。滝谷不動尊までは東へすぐですので、行き先は、「滝谷不動」ではなく「槇尾山」ですね。
いずれにしても、人々が多く行きかう街道に建てられていることが分かります。駅のそばに建てられたのではありませんよ。くれぐれもお間違いのないように。
⑦ 藤井寺市・道明寺天満宮(〇)
こちらは、道明寺天満宮内に建てられています。まさにそのまま「天満宮」と彫られています。
下の写真が道明寺天満宮です。道明寺は、この天満宮とは同じ敷地にありました。道明寺には、菅原道真の叔母・覚寿尼が住んでいましたが、道真が大宰府に流されるときに、この叔母に会いに来られたと伝えられており、この天満宮では菅原真公をもお祀りしています。
⑧ 藤井寺市・藤井寺(〇)
こちらは、藤井寺市の名前の由来となった葛井寺の南門前に建てられている道標です。
と彫られています。
この道標の前を東西に走る道は「大坂道」といって、松原市岡から新堂を通って平野に至り、南向いて走っている道は「和州街道」と呼ばれており、野中を通って東の古市に向かい、竹内街道に合流します。
正面が葛井寺の南門で、前に伸びている道が和州街道です。
⑨ 河内長野市・楠町(〇)
こちらは、天保8年3月に建てられた道標で、高野山に向かう西高野街道と中高野街道との合流点に建てられており、ここからは、高野街道として一本化しています。また、木戸町方面に向かう分岐点でもあります。
それにしても、四国八十八ケ所とは、海の向こうまでも対象にした道標なんですね。
⑩ 河内長野市・原町(〇)
「晴明塚」とほられています。晴明とはまさに「安部晴明」その人です。
平安時代の陰陽師で、延喜21年(921)に現在の大阪市阿倍野区に生まれたとされています。が、晴明の父である保名と稲荷の狐が化身した女性・葛の葉との間に生まれた子が晴明だとの伝説があります。その地こそ和泉市の信太森葛葉稲荷神社です。
さて、この塚ですが、ある時、花山天皇の高野詣に安部晴明が同行し、この地を通りかかった際に、道端にいた物乞いが「あぁ、また雨がだな」とつぶやいたのです。自分の占いでは「晴」と出ていましたので、そのように天皇に申し上げていました。翌日、紀見峠あたりで急に激しい夕立に見舞われ、天皇は晴明の占いの外れたことを非難。
高野山からの帰り道で、やはり先の物乞いと出会い、なぜ雨が降ることが分かったのかを、晴明は物乞いに問うと、「自分の体にできている出来物がかゆくなるからだ。」と答えたのです。晴明は、学問よりも身体で知った知識の確かさを知り、持っていた天文暦数の文書をその場で焼き捨てたそうです。
村人たちは、天皇の去った後、灰を埋めて小さな塚を築いて晴明の徳をしのびました。
そして、江戸時代の終わり近くになって、神南邊道心がこの地で前ページの話を聞き、あらためてこの石の塚を建立したようです。ただ、この塚には建立された年代は彫られていませんので、いつ建てられたかは分かりませんが、その側面には「さかい 神南邊」と彫られていることから天保時代の頃だろうと思われます。
しかし、このような昔の、しかも消えゆくような伝説も掘り起こして塚として残していっているのは、現代の人にとってもとてもありがたいことですね。
⑪ 羽曳野市・伊賀(〇)
堺市方面から竹内街道を東に向かい、羽曳野市に入ると、天仁病院の南にこの道標が建っています。
現代の道路の状況からすると、なかなか読みづらい道標ですが、伊勢、壺坂、槇尾寺、大峯山と、多方面に向かう要に当たる地です。
⑫ 羽曳野市・川向(〇)
神南邊道心が建てたのは右側の道標で、竹内街道を通る旅人に大黒の大黒寺への道案内をするとともに、その由緒を記しています。この大黒寺は、天智天皇4年(665)に役行者が金剛山で祈願中に、五色の雲がたなびき、大黒天が現れて「甲子の日に礼拝して信仰すれば五つの福を授ける」とのお告げがあり、大黒天の塑像を彫ってお祀りをしたのが始まりです。
⑬ 羽曳野市・駒ヶ谷(〇)
竹内街道と壷井道との分岐点に建てられているのが、上の道標です。それぞれ下のように彫られていますが、右のは、左の石柱の右側面にあたります。修験道を開いた役行者が、錫杖で掘り当てた水であることを伝え、右側面で、壷井道を行くと、壷井、通法寺、上ノ太子(叡福寺)に至ることを伝えています。
⑭ 太子町・春日(〇)
上の3枚の写真は全て同じ道標です。竹内街道の六枚橋付近に建てられており、この道標から西に向かえば上ノ太子(叡福寺)方面に、東に向かえば飛鳥方面に向かいます。
また、北を目指せば大坂・堺方面です。上ノ太子である叡福寺には、聖徳太子の墓所があり、我が国の歴史上も仏教寺院としても非常に大事な場所です。この三叉路は、まさに当時としては、最重要地点に向かう拠点であったようです。

(松井保氏提供)
もともとはこの道標は「角屋」という、竹内街道と富田林街道とが分岐する交通の要所にあった旅籠の前に建っていました。下の写真は、昭和中頃の角屋です。この旅籠は、河内名所図会にも書かれており当時(江戸時代末期)に、お伊勢参りの途中に高野山や當麻寺とともに叡福寺にもお参りをし、この角屋に宿泊をしていたようです。
⑮ 太子町・井関(〇)
竹内街道歴史資料館から東にすぐの曲がり角に建っています。道標の下部が埋もれており、読めなくなっています。
⑯ 太子町・佃(〇)
竹内街道と、前の⑭の富田林街道の一本南の旧道との交差点の交番の裏に建っています。
かなり崩れていますが、かろうじて「堺神南」の文字が読めており、神南邊道心にかかわる道標だったことが分かります。ただし、神南邊道心が建立したものではない可能性は高いでしょう。
引用・参考文献
・秋里籬嶋編「河内名所図會 第4巻」 (浪華書林、1801年)
・堺市役所「堺市史 第7巻」(堺市役所、1930年)
・狭山町史編纂委員会「狭山町史」 (狭山町役場、1967年)
・大阪狭山市史編さん委員会・大阪狭山市立郷土資料館
「大阪狭山市史 第7巻」(大阪狭山市役所、2006年)
・末永雅雄・他「大阪狭山市史要」 (大阪狭山市役所、1988年)
・別所やそじ・尼見清一「むかしの堺 続編」(はとぶえ会、1979年)
・尼見清一・木村亀次「堺のあゆみ」 (堺商工会議所、1990年)
・森田兼夫「堺の歴史探索 地名あれこれ」 (堺商工会議所、1999年)
・太子町立竹内街道歴史資料館「竹内街道の道しるべ」
(太子町立竹内街道歴史資料館、1996年)
おわりに
神南邊道心について、堺市及びその周辺を歩き回って分かったことをまとめてみました。歩けば歩くほど、この大道心のことがすごい人だったんだなと分かってきました。
乱暴者だった若いころを反省したとしても、なかなかここまでのことはできないでしょう。本当に多くの人たちに迷惑をかけたと悔やんだのでしょう。それを一生をかけて償っていかれた様子が、200年近くたった今でも残されているのですから。
今まであまり知ろうとしてきませんでしたが、今回あらためて神南邊道心のことを知りたいと強く思った次第です。
なお、神南邊道心は、大阪だけではなく、京都、奈良、和歌山、三重にもその名を刻した石造物があるようです。大阪でも、探せばもっと見つけられることでしょう。今後、この人の建てた石造物をさらに見つけることが楽しみになってきました。
新たに神南邊道心の建てられた石造物を、どこかで見つけられた方がおられましたら、ぜひ教えていただきたく存じます。
土肥 俊夫(どい としお)
昭和25(1950)年、堺市に生まれる。
昭和48(1973)年、小学校教諭として勤務
堺市立中百舌鳥小学校、堺市立浅香山小学校
昭和61(1986)年、堺市教育委員会勤務
学校指導課、総務課、教育研究所、教育政策課
平成10(1998)年、小学校教頭として勤務
堺市立市小学校、堺市立浜寺石津小学校
和泉市立緑ヶ丘小学校、堺市立竹城台東小学校
平成20(2008)年3月退職
平成20(2008)年4月、堺・中・西・北区役所にて非常勤で就学相談担当
平成21(2009)年4月、堺市教育センター専門指導員として本市の初任者教員指導担当
平成27(2015)年3月、退職
神南邊道心と石造物
発 行 令和3年1月
編集兼発行者 土肥 俊夫
(非売品)
※表紙 神南邊道心の墓の上の地蔵
大阪府内の道心が発起人となった石造物
※使用地図:昭文社版、堺市東区マップ、美原区マップ、
大阪狭山市観光マップ、富田林市きらめき観光マップ



































