堺市立英彰小学校
1.お蔭山跡:大浜北町
江戸時代の終わり頃、日照りで米が育たなかったり、米の買い占めをしたりして、米を買えない人がたくさん出ました。堺奉行曲淵甲斐守は、運河をつくって生活に苦しむ人たちに工事をしてもらって救おうとしました。この時に出た土を積み上げて高さが約17.8mの山ができました。人々は、苦しい生活を凌ぐことができたので、この山を「お蔭山」と呼んだのです。
2.階段室(英彰小学校):寺地町
第二次世界大戦の堺大空襲の跡は、英彰小学校内でも見られます。手前の三角屋根の校舎がそれで、戦争で焼け残った校舎の一部が残されています。階段室と呼ばれており、2階の階段の上に一部屋が残っています。
我が国で一番低い一等三角点のある山として、国土地理院の地図にも記載されている山です。1879年にお台場を整備して大浜公園にする際につくられた山で、2か所の登山道があり、頂上には蘇鉄も植えられています。標高は6.85mです。
4.擁護璽:大浜北町
1854年に南海地震が起こりました。それに 伴って大きな津波が発生しました。多くの家が壊れ橋が8つも落ちましたが人は一人もなくなりませんでした。以前の津波の時に、船で逃げようとした多くの人がなくなったという言い伝えを知っていたために神社の庭に逃げて無事だったのです。この事実を忘れないようにと建てられています。
市小校区の「14」でも書きましたが、これは海に向かって一直線上に大砲を置いたものでしたが、 これを1866年に南北295m、東西195mにした洋式の砲台場に改築されました。北、西、南側には石垣を積んで堀も設けてありました。現在は、南側には当時の石垣と堀とが残されています。
6.鎰町芝居跡:南半町西
17世紀後半頃、2軒の芝居小屋が市内に常設されていました。戎島とこの鎰町です。ともに1100人ほども人が入れる規模で、小屋の周りには茶屋などもあって、堺港に入って来た人たちや日和を待って滞在している人たちが遊べるようになっていました。大阪を追われた二代目中村富十郎は堺に住み、この小屋で舞台に復帰していました。
7.内川
1615年に現在の旧市内の元がつくられました。しかし西側はまだ海でした。1703年に大和川が現在の流れに付け替えられたために、多くの土砂が海に流れ込み、堺の湊を埋めていきました。舟運のために西側を内川として整備して残し、現在にいたっています。
甲斐町東にある開口神社の御旅所です。旧暦の8月1日に、豊作・豊漁を感謝して泉州で最初の秋祭りが行われていました。開口神社からこの芦原御旅所まで神様が旅をしてこられて、一泊されます。これをお渡りと呼び、現在は9月12日に近い土曜日に行われています。
9.明治天皇行在所舊蹟:寺地町
明治10年(1877)に明治天皇が熊野小学校 で授業を参観されたときの宿泊所になったところで、河盛仁平氏の屋敷でした。河盛仁平というのは、当時の堺の繊維を扱う豪商でしたが、天皇の一泊のために部屋を改造しベッドもしつらえています。ここで天皇が深夜のお休みのときに、三条実朝が京都から飛び込んできて、鹿児島での西郷隆盛たちの反乱を知らせ、翌朝に急いで京都に戻られたのです。ご存知、西南戦争ですね。
魚屋の息子だった利休は田中与四郎という名前 でした。納屋衆という倉庫業を営み、各地から送られてくる品物を一時しまっておく倉庫を貸していました。現在は、椿井と呼ばれる井戸が残されているだけです。
11.さかい利晶の杜:宿院町西
平成15年3月に開館した、千利休と与謝野晶 子を通して堺を体験できるミュージアムです。与謝野晶子記念館では、生家の駿河屋の店先を再現し、千利休茶の湯館では、利休作の待庵を復元しています。
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