錦小校区の史跡

 

堺市立錦小学校

〒590-0934 大阪府堺市堺区九間町東三丁1番17号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.西本願寺堺別院:神明町東

 足利義氏の四男道祐が、本願寺覚如に帰依して建立したのが始まりで、1663年に寺地を西本願寺に寄進し別院となりました。本堂は1825年に再建されたもので、本堂は明治4年(1871)から10年間、堺県庁として使われていました。

 現在は「北の御坊さん」として市民に親しまれています。

2.山口家住宅:錦之町東

 1615年の大坂夏の陣で豊臣方に焼かれた堺の町を元和の町割りで復興しましたが、この頃に山口家住宅は建設されました。元禄2年の堺大絵図では「越後屋久右衛門」が所有しています。

 「京の着倒れ、大坂の食い倒れ、堺の建て倒れ」と言われいたように、堺の豪商たちは建築にぜいを凝らしていました。

3.「河井酔茗すいめい生家の跡」石碑:北旅籠町西

 紀州街道に沿って東側に碑は立てられています。この河井酔茗は、1874年にこの地で生まれた詩人です。今から30年ほど昔の6年生の国語の教科書に「ゆずりは」という酔茗の詩が載せられていました。ちょうど6年生が卒業して一歩大人に近づいていくのにふさわしい詩で、担任はこの詩を授業するのがとても楽しみでした。酔茗は若い頃に東京に出て、「文庫」の記者として詩欄を担当され、北原白秋らを世に送っています。

 

4.極楽橋:宿屋町東

 1615年の町割りで新しく掘られた土居川には、36もの橋が掛けられていました。昭和40年頃から阪神高速道路の建設のために土居川は埋めたてられ、自治都市堺のシンボルだった環濠の北と東部は消えてしまい、同時に橋も消え去りました。当時の面影を残すために「極楽橋」だけを土居川公園内に残しています。なおこの橋は1853年に造られたものです。

 

5.農人町井戸:柳之町東

 1815年の元和の町割りで、堺の町の東側の堀のすぐ西側にお百姓さんたちを住まわせ、「農人町」としました。その西側が寺町筋です。堺の町全体を城郭のようにして、外壁として農人町を、ことが起こったときにはお寺に武将をいれて堺の町を守ろうとしたのでしょう。農人町は現在なくなって「土居川公園」となっています。この農人町の名残としてこの「農人町井戸」が碑とともに残されています。

6.高須神社:北半町東

 1614年の大坂冬の陣の折に、徳川家康は500丁の鉄砲を造るように、鉄砲鍛冶の芝辻理右衛門に命じました。それに応えた理右衛門は、徳川秀忠より高須の地を賜りました。1681年に芝辻家の子孫によりこの地に高須神社が創建されています。なお、江戸時代の書物「和泉名所図会」には、かなりの広さでこの神社が描かれています。

 

 

7.「小西行長生家跡」石碑:神明町東

 小西行長は、堺の薬種商小西隆佐の子どもで、キリシタンでもありました。隆佐も行長もともに豊臣秀吉に可愛がられ、中国攻めの折に宇喜多家を寝返らせた功績は大きいでしょう。大名に取り立てられ瀬戸内の支配を任されています。また、ライバルの加藤清正と肥後の国を分け合い、南半分の24万石宇土城主となっています。関ヶ原の戦いでは西軍に組みし家康方に敗れ、六条河原で処刑されていますね。

 

 

 

8.妙国寺:材木町東

 1562年に三好長慶の弟の実休が、日珖上人に土地を寄進し、堺の豪 商油屋常言の協力で建てられたのが、妙国寺です。日蓮宗の代表的な寺院として、商人や武将たちの信仰を集めましたが、1615年の大坂夏の陣の折に「徳川家康妙国寺にあり」と豊臣の武将大野道犬は聞き、妙国寺に火を放ち丸焼けになっています。

9.徳川家康の詩(妙国寺)

 1582年の本能寺の変のときに堺を訪れていた徳川家康は、妙国寺に宿泊していました。信長が光秀に討たれた旨を聞くや、急いで三河に帰りました。家康が当時を詠んだ詩が石碑として刻まれています。ちなみに
「妙なりや 国にさかゆる そてつぎの ききしにまさる一もとのかぶ」とよまれているのです。

10.大蘇鉄(妙国寺)

 戦国時代に、南の国から運ばれてきた妙国寺の蘇鉄は、当時大変珍しがられました。織田信長は、この蘇鉄を安土城に移植しました。城では夜な夜な、泣き声が聞こえてきます。「堺へ帰ろう」と蘇鉄が泣いています。信長は家来に蘇鉄を切り倒すように命じました。家来が蘇鉄に刃を入れると、蘇鉄の幹から真っ赤な血が流れ出ました。信長も気味悪がって妙国寺に戻すことにしたのです。現在、この蘇鉄は堺市で唯一の天然記念物に指定されています。

11.「英士割腹跡」(妙国寺)

「堺事件」として、森鴎外や大岡昇平が小説などに書かれているほど、当時としては、大きな国際問題だったでしょう。堺の町に入っているフランス領事を迎えに、フランス海軍は堺港に上陸しました。市中警護の土佐藩兵はこのフランス兵ともめ、11人のフランス兵を殺傷しました。慶応4年のことです。ロッシュ公使は、多額の賠償と兵士20名の斬刑を要求し、明治政府はこれをのみました。くじ引きで関係者29名の内20名が決められました。この土佐藩兵の切腹場所が妙国寺で、「英士割腹跡」の碑が同寺に建っています。ただし、11人目が割腹したときにフランス軍艦長はストップをかけ、切腹は終わりました。

12.土佐十一烈士の墓(宝珠院):宿屋町東

 上の割腹した11名の墓が妙国寺の向いにある宝珠院に あります。当初は妙国寺に葬られる予定でしたが、「勅願寺に切腹した者を葬るのは不都合」との伊達宗城の意見が通り、宝珠院に葬られることになりました。

 

 

13.寺町筋

 1615年に元和の町割りをした祭に、土居川の内側に農人町を、その内側に寺を置きました(口絵1の元禄2年堺大絵図参照)。この南北に置かれたお寺の町筋を「寺町筋」と呼んでいます。現在も多くのお寺が同じところにたくさん立ち並んでいます。

 

 

14.月蔵寺がつぞうじ:柳之町東

 1495年の創建で、桜之町にありましたが、1543年に現在地に移転しました。山門には司馬温公の瓶割りを題材とした彫刻があります。司馬光が7歳の時に一緒に遊んでいた子どもが大きな水瓶に落ち、溺れそうになっているのを見て、水瓶を割って子どもを救い出しました。司馬光の父親が大事な水瓶を割ったことを怒らずに、子どもの命を救ったことを褒めたという故事を彫り物にしています。

15.大野道犬斎はるたね慰霊塔(月蔵寺)

 秀吉の側近の大野治長の弟の慰霊塔です。道犬は豊臣家を守るために家康と戦うことを主張します。1615年の大坂夏の陣で、堺の町の財力を家康方に奪われないようにと、道犬は、堺の町を焼き尽くしてしまいます。大阪城が落城後、道犬は京都で捕えられ並松の刑場で火刑に処せられました。堺の人々の恨みをかった道犬でしたが、豊臣家への忠誠を貫いたとして堺の人々の手で供養塔が建てられました。

 

 

16.風間六右衛門尉道喜の墓(月蔵寺)

 1615年の元和の町割りをされた六右衛門ですが、法華宗だったために法華宗の寺域を広くとったり、南宗寺を宿院町から南端に移したりしたために批難が起こりました。寺社奉行は、六右衛門に江戸への出頭を命じたところ、六右衛門は堺の町を出たなんまつ町のあたりで切腹をして果てました。法華宗徒により葬られました。明治初頭に月蔵寺に移転されたようです。

 

 

 

17.覚応寺:九間町東

 覚如上人に帰依した伊予(現・愛媛県)の豪族河野通元が日向(現・宮崎県)の霧島山の麓に建てた覚応坊が元になっています。数代の後に堺に移って覚応寺としました。この寺の住職の河野鉄南は、文学仲間の鳳晶子と与謝野鉄幹とを引き合わせた人で、境内には与謝野晶子の歌碑があります。

18.与謝野晶子歌碑(覚応寺)

 覚応寺には、与謝野晶子の歌碑がおかれています。  
「その子はたち くしにながるゝ くろかみの おごりの春の うつくしきかな」
と、晶子自身の、くしを通す豊かな黒髪を見て、若さゆえの夢と希望を感じて詠んでいます。

 なお、覚応寺では、毎年晶子の命日の5月29日には、白桜忌が開かれています。

19.西ルイスの墓(本受寺):宿屋町東

 1461年の開基となるお寺です。西宗信(キリスト教名は西ルイス)は、肥前の大村領主の家臣で、大浦で700石の領地をもっていました。イスパニア語にも通じ、家康より海外への渡航の朱印を受けて度々ルソン島などへ渡航して、家康に外国の事情を報告していました。また、本寺にはキリシタン燈籠も残されています。

 

 

 

 

 

 

20.「西るいす宅跡」石碑:宿屋町東

 元和2年(1616)から堺に住み、法華宗に改宗し、本受寺が菩提寺となっています。

 

 

 

 

 

21.朱座之跡:宿屋町東

 朱は、漆器や朱肉の塗料として珍重されたり、将軍などの身分の高い人が亡くなられた時に防腐剤として棺に詰めたりするものです。朱の製造所も堺には初めて設置されました。1609年に幕府は全国に朱座を6か所置き、堺の小田助四郎を朱座仲間年寄りとしました。

 

 

 

22.郷学所跡:九間町東

 江戸時代の後期の堺では、市民の間で様々な教育活動がおこり、寺子屋も幕末には22軒ありました。これを受けて、堺奉行所は1843年に「郷学所」を発足させました。初めは車之町東にありましたが、手狭になり、1859年に九間町に移転しています。幕府の援助もあり、市民の上級教育機関として発展し、河内や和泉などの近隣の村からも人々が学びにきました。1871年に廃止されるまで公教育の中心的役割を担い続けました。

 

 

 

23.曾我廼家そがのや五郎住居の跡:錦之町東

 1877年に生まれた我が国の喜劇役者です。1892年に歌舞伎俳優に弟子入りし、翌年に初舞台を踏むが、1904年に曽我廼家十郎と出会い、「曽我廼家兄弟劇」を結成しました。この年には宿院の卯の日座で喜劇デビューを  果たします。9年後には独立し、ヨーロッパにも渡って喜劇を学んで帰国後、「五郎劇」を結成しました。また1000本もの脚本も残すなど、我が国の喜劇を牽引してきました。死後、五郎の弟子たちによって松竹新喜劇が結成されました。

24.真宗寺:神明町東

 創建は南北朝時代の初期で、足利義氏の子祐氏が堺に来て出家して道祐となったが、本願寺の覚如上人に帰依して寺を開いたのが始まりです。1470年に、道顕が真宗寺を再興し、蓮如上人を請いて落慶し、蓮如上人の堺での布教の拠点としました。織田信長との石山合戦では、真宗寺第10世顕珍は堺における一向一揆のリーダー的立場にありました。

25.浄念寺:柳之町東

 1472年に、善誉浄念上人によって開創されました。境内には堺の鉄砲鍛冶榎並屋勘左衛門の墓があります。また境内にある井戸は、浄念寺井として堺名水の1つで、清酒の醸造に用いる人が多かったようです。

 

 

 

26.昭和9年9月21日
       室戸台風による風水害慰霊碑など

 高知県室戸岬付近に上陸した台風は、最大瞬間風速など記録的な数値を出し、強風や高潮での被害は甚大なものとなりました。死者・行方不明者3036人を出しています。錦小学校では校舎が倒壊し、児童39名、教師1名がなくなっています。

  

  

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