41 さかい大空襲だいくうしゅう

堺市戦災殉難の碑

 先の「天誅組上てんちゅうぐみじょう陸地りくち」の碑からさらに川にそって東に向かいましょう。南海なんかい本線ほんせんのガードをくぐり、たてかわはしをこえたところに、この「堺市さかいし戦災せんさい殉難じゅんなん」があります。

 第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんも終わり近くの、昭和20(1945)年7月10日の夜中、アメリカぐんによる100をこえる爆撃機ばくげききが、焼夷弾しょういだん(落ちたとたんに燃えやすいくすりが広がる爆弾ばくだん)を落とし、堺市内はけ野原となり、1800人をこえた人たちがなくなりました。

堺市戦災図
(堺市制施行70年誌より)

 それまでも3月14日から3回の空襲くうしゅうはありましたが、4度目のこの日の被害ひがいは一番はげしいものとなったのです。この日の被害は、18446けんの家が焼けてしまい、先に書いた死者とともに、行方ゆくえ不明者ふめいしゃも1020人もいました。焼け出された人は7万人をこえています。

 9日の夜、和歌山を攻撃したアメリカ軍の爆撃機は、いったん南の海上に飛び立っていき、堺市民もほっとして眠り始めたその時です。とつぜんの空襲で、一時間半にわたって、くりかえし攻撃をしてきたのです。

 警報けいほうでたたきこされた市民は、とるものもとりあえず簡単かんたんな荷物を持って、とにかくげるだけでした。水をもとめて土居川に逃げていった市民の上にも焼夷弾を落としていき、土居川には多くのなくなった人たちがおりかさなっていたと言います。

 私の家も焼夷弾を落とされています。私の子どものころに、「祖母そぼ防空ぼうくうごうににげこみましたが、焼夷弾が防空壕の真上に落とされ、祖母は即死そくしだった。」という話を両親から何度も聞かされました。わが家のような被害ひがいをうけた家庭がたくさんあったのです。

 この悲惨ひさんな戦争をわすれずに被害者ひがいしゃめいふくをおいのりし、いつまでも平和であることをねがう気持ちで、このは建てられたのです。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です