先の「天誅組上陸地」の碑からさらに川にそって東に向かいましょう。南海本線のガードをくぐり、竪川の橋をこえたところに、この「堺市戦災殉難の碑」があります。
第二次世界大戦も終わり近くの、昭和20(1945)年7月10日の夜中、アメリカ軍による100をこえる爆撃機が、焼夷弾(落ちたとたんに燃えやすい薬が広がる爆弾)を落とし、堺市内は焼け野原となり、1800人をこえた人たちがなくなりました。
それまでも3月14日から3回の空襲はありましたが、4度目のこの日の被害は一番はげしいものとなったのです。この日の被害は、18446軒の家が焼けてしまい、先に書いた死者とともに、行方不明者も1020人もいました。焼け出された人は7万人をこえています。
9日の夜、和歌山を攻撃したアメリカ軍の爆撃機は、いったん南の海上に飛び立っていき、堺市民もほっとして眠り始めたその時です。とつぜんの空襲で、一時間半にわたって、くりかえし攻撃をしてきたのです。
警報でたたき起こされた市民は、とるものもとりあえず簡単な荷物を持って、とにかく逃げるだけでした。水をもとめて土居川に逃げていった市民の上にも焼夷弾を落としていき、土居川には多くのなくなった人たちがおりかさなっていたと言います。
私の家も焼夷弾を落とされています。私の子どものころに、「祖母は防空壕ににげこみましたが、焼夷弾が防空壕の真上に落とされ、祖母は即死だった。」という話を両親から何度も聞かされました。わが家のような被害をうけた家庭がたくさんあったのです。
この悲惨な戦争をわすれずに被害者の冥福をお祈りし、いつまでも平和であることを願う気持ちで、この碑は建てられたのです。