40 さかい事件じけんがおこった所と 天誅組てんちゅうぐみ上陸地じょうりくち

天誅組上陸の碑

 前回の旧堺港きゅうさかいこうからたてかわにそって東に歩くと、すぐに「明治初年仏人ふらんすじん撃攘之処げきじょううのところ」と「天誅組上陸地」のが見えてきます。堺事件については「みょう国寺こくじ」のところで書いていますので、ここではくわしくはふれません。

 大阪から堺にむかったフランス人2名がなかなかもどってこないので、その2名をさがすために船からフランス兵が上陸をしました。そのころ堺を警備けいびしていた土佐藩兵とさはんへいともめて11名のフランス兵が殺されたのが、この碑のあたりなのです。

 この堺事件の碑の右側にもう1つ碑があります。これが「天誅組上陸地」をしめす碑なのです。文久ぶんきゅう3(1863)年、徳川とくがわ幕府ばくふをたおそうとする人たちがはたらき、天皇てんのうが今の奈良ならに行くことが決まりました。おなじく幕府をたおそうとする吉村よしむらとら太郎たろうらは中山なかやま忠光ただみつをかしらにして奈良で天皇をむかえようと考えて、京都を出発しました。船で淀川を下って大阪おおさかわんに出て、堺港に上陸じょうりくしました。そこから東に向かい、富田林とんだばやし仲間なかまを集めて「天誅組」と名のったのです。さらに奈良の五条ごじょう代官所だいかんしょをおそってきはらい天皇の来られるのをまちます。

堺事件のおこった場所の碑

 しかし、天皇をかつぐ人たちが幕府側の人たちに変わったため、天皇が奈良に行かれるのが中止となり、「天誅組」は天皇のぞくになってしまったのです。そこで、逆に「天誅組」は、天皇側によってたおされることになりました。

 この「天誅組」が上陸したのが、左の写真の大きな碑のあるあたりなのです。

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