阪堺電車「寺地町」停りゅう所を下車し東へ向かうと、南宗寺の手前に臨江寺という寺があります。ここには、堺が自治都市の時代に会合衆だった今井宗久のお墓があります。
今井宗久は、永正17年(1520)に大和国今井村(現・橿原市今井町)に生まれました。その後、堺に出て武野紹鴎に茶を学ぶとともに、紹鴎の財産や茶器などもゆずられています。また、鎧をつくるのに必要な皮製品をあつかい、豪商となっていきます。「はとぶえ」12回にも書きましたが、織田信長が堺に二万貫の矢銭(軍資金)を要求してきたときに、堺の会合衆たちはその要求を拒否しましたが、宗久だけは織田信長に大事な茶器をおくって信長との関係を結んでいます。それによって、堺の町は戦火をまぬがれたのです。
宗久はその後信長の信頼が厚くなり、鉄砲や弾薬をつくるなどして堺で一番のお金持ちになりました。また、堺の町の代官にもなるなど、信長が堺を支配するために力をつくしています。
この臨江寺は、承応元年(1652)宗久の曾孫(孫の子)の今井兼続が開いたお寺で、それ以来、堺の今井一族の菩提寺(代々の一族がまつられているお寺)となっていて、代々の今井一族の方々のお墓があります。さらにこのお寺には、宗久の茶の師匠の武野紹鴎の墓まであります。
なお、織田有楽斎からゆずられた今井宗久の屋敷は、現在の堺区宿院町東三丁にありましたが、今は石碑が立っているだけです。阪堺電車「宿院」停りゅう所下車、南東へ四分ほどあるくと石碑に出会えます。