前回の旧堺港から竪川にそって東に歩くと、すぐに「明治初年仏人撃攘之処」と「天誅組上陸地」の碑が見えてきます。堺事件については「妙国寺」のところで書いていますので、ここではくわしくはふれません。
大阪から堺にむかったフランス人2名がなかなかもどってこないので、その2名をさがすために船からフランス兵が上陸をしました。そのころ堺を警備していた土佐藩兵ともめて11名のフランス兵が殺されたのが、この碑のあたりなのです。
この堺事件の碑の右側にもう1つ碑があります。これが「天誅組上陸地」を示す碑なのです。文久3(1863)年、徳川幕府をたおそうとする人たちがはたらき、天皇が今の奈良に行くことが決まりました。おなじく幕府をたおそうとする吉村寅太郎らは公卿の中山忠光をかしらにして奈良で天皇をむかえようと考えて、京都を出発しました。船で淀川を下って大阪湾に出て、堺港に上陸しました。そこから東に向かい、富田林で仲間を集めて「天誅組」と名のったのです。さらに奈良の五条の代官所をおそって焼きはらい天皇の来られるのをまちます。
しかし、天皇をかつぐ人たちが幕府側の人たちに変わったため、天皇が奈良に行かれるのが中止となり、「天誅組」は天皇の賊になってしまったのです。そこで、逆に「天誅組」は、天皇側によってたおされることになりました。
この「天誅組」が上陸したのが、左の写真の大きな碑のあるあたりなのです。