39 旧堺港きゅうさかいこう乙姫像おとひめぞう

 大浜おおはま公園こうえんの北がわに多くのヨットが停泊ていはくしています。ここは、旧堺港とよばれているところです。

 堺が自治じち都市としとよばれているころ(1500年代後半)、堺の港は今よりもずっと東にありました。江戸時代(1603~1868年)になって大和川が運んできた土砂どしゃに海がめ立てられて、海岸はどんどん西側にうつっていきました。海があさくなって、大きな船が入れなくなり、江戸時代には、何度も海底の土砂をほったり、土砂が流れこんでこないように石でつつみをつくったりしました。でも、土砂の流れこみは止まりませんでした。

旧堺港と乙女像

 そこで、天保てんぽう(1830~1844年)と安政あんせい(1854~1860年)の時代にになって堺の港をつくりなおしたのです。小波止こばと大波止おおばとをのばしたり、海に新しく石の堤をきずくなど、土砂が入ってくるのをふせぎました。さらに新たに海をって安政2年にようやく立派りっぱみなとが完成しました。このときには、堺の商人たちがお金を出し合ったのです。このときにできたのが現在の旧堺港です。

 当時は大飢饉だいききんといって、気候きこうがわるく農作物のうさくもつが十分できなかったり、物価ぶっかが高くなり食べ物が買えなかったりしていたのですが、堺港をつくり直すことで、多くの人たちがお金をかせげるようにもなりました。

北波止に立つ乙女像

 また、周辺には新しくお寺や神社をてたり、食べたりあそんだりする所をつくったりして、人々が楽しめるような場所もふやしていったのです。

 また平成11年に、写真中央にある乙姫像おとひめぞうりゅう神像がみぞう)が建てられました。なぜ、ここにこんなものがと思われるでしょう。実は明治36(1903)年に、大阪市内で第五回内国ないこく勧業かんぎょうはく覧会らんかいが開かれたときに、大浜公園にその第二会場として水族館すいぞくかんができ、その前に乙姫像が建てられたからです戦後せんご臨海りんかい工業こうぎょうが造られたときに水族館や乙姫像が取りのぞかれました。その像をふたたびこの旧堺港に建てたのです。

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