104 今井家累代るいだいはか臨江寺りんこうじ

臨江寺:今井家累代の墓

 阪堺電車「寺地町」ていりゅう所を下車し東へ向かうと、南宗寺の手前に臨江寺という寺があります。ここには、堺が自治都市の時代に会合かいごうしゅうだった今井そうきゅうのお墓があります。

 今井宗久は、えいしょう17年(1520)に大和国やまとのくに今井村(現・橿原市かしはらし今井町)に生まれました。その後、堺に出て武野紹たけのじょうおうに茶を学ぶとともに、紹鴎の財産や茶器などもゆずられています。また、よろいをつくるのに必要なかわ製品せいひんをあつかい、豪商ごうしょうとなっていきます。「はとぶえ」12回にも書きましたが、織田信長が堺に二万がんぜに軍資金ぐんしきん)を要求してきたときに、堺の会合衆たちはその要求を拒否きょひしましたが、宗久だけは織田信長に大事な茶器をおくって信長との関係を結んでいます。それによって、堺の町は戦火をまぬがれたのです。

 宗久はその後信長の信頼があつくなり、鉄砲てっぽう弾薬だんやくをつくるなどして堺で一番のお金持ちになりました。また、堺の町の代官にもなるなど、信長が堺を支配するために力をつくしています。

今井宗久屋敷跡の石碑

 この臨江寺は、承応じょうおう元年(1652)宗久の曾孫そうそん(孫の子)の今井かねつぐが開いたお寺で、それ以来、堺の今井一族の菩提寺ぼだいじ(代々の一族がまつられているお寺)となっていて、代々の今井一族の方々のお墓があります。さらにこのお寺には、宗久の茶の師匠ししょうの武野紹鴎の墓まであります。

 なお、織田有楽うらくさいからゆずられた今井宗久の屋敷やしきは、現在の堺区宿院町東三丁にありましたが、今は石碑せきひが立っているだけです。阪堺電車「宿院」ていりゅう所下車、南東へ四分ほどあるくと石碑に出会えます。

臨江寺:武野紹鷗墓
臨江寺:曽我兄弟供養塔

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