大浜公園の北がわに多くのヨットが停泊しています。ここは、旧堺港とよばれているところです。
堺が自治都市とよばれているころ(1500年代後半)、堺の港は今よりもずっと東にありました。江戸時代(1603~1868年)になって大和川が運んできた土砂に海が埋め立てられて、海岸はどんどん西側にうつっていきました。海があさくなって、大きな船が入れなくなり、江戸時代には、何度も海底の土砂をほったり、土砂が流れこんでこないように石で堤をつくったりしました。でも、土砂の流れこみは止まりませんでした。
そこで、天保(1830~1844年)と安政(1854~1860年)の時代にになって堺の港をつくりなおしたのです。小波止や大波止をのばしたり、海に新しく石の堤を築くなど、土砂が入ってくるのを防ぎました。さらに新たに海を掘って安政2年にようやく立派な港が完成しました。このときには、堺の商人たちがお金を出し合ったのです。このときにできたのが現在の旧堺港です。
当時は大飢饉といって、気候がわるく農作物が十分できなかったり、物価が高くなり食べ物が買えなかったりしていたのですが、堺港をつくり直すことで、多くの人たちがお金をかせげるようにもなりました。
また、周辺には新しくお寺や神社を建てたり、食べたり遊んだりする所をつくったりして、人々が楽しめるような場所もふやしていったのです。
また平成11年に、写真中央にある乙姫像(龍女神像)が建てられました。なぜ、ここにこんなものがと思われるでしょう。実は明治36(1903)年に、大阪市内で第五回内国勧業博覧会が開かれたときに、大浜公園にその第二会場として水族館ができ、その前に乙姫像が建てられたからです戦後、臨海工業地が造られたときに水族館や乙姫像が取りのぞかれました。その像をふたたびこの旧堺港に建てたのです。